夢を見ていたようだ。何の夢かはうっすらとしか覚えていない。漠然と怖かった。
まだ3時か。俺は呟く。全身から汗が吹き出していて非常に気持ち悪い。リビングの電気を点け、シャワーの準備をした。
シャワーを浴びながら思い返す。何かに追いかけられてて……何だっけ?いつものホラー好きが災いして、夢にも出てきてしまったのかな。
俺はその程度で済ませてしまった。
その後何が起きるわけでもなく、数日のうちに忘れた。
「お疲れ様です」
俺はちょっとしたおしゃれなカフェに勤めている。都内の某オフィス街で開いている店だ。そんな場所にあるので、行き帰りは時間がかかる上に疲れる。
ようやく家に着く。まずベッドの近くに鞄を置いた。
「うわぁ!」
もう一人の声が重なる。女の子の声。よく見れば、黒髪のボブで襟足にウェーブがかかっている。今どきの女の子そのまま。
「君は?」
恐る恐る聞く。桜の匂いがするのは気の所為だろうか。
「……名前はありません。でも誰かに"リンネ"と呼ばれていた気がします」
輪廻。頭の中にその字が浮かんだ。電気を点け、ベッドに座っている彼女の前に椅子を持ってくる。
「じゃあリンネって呼べばいい?」
「はい」
違和感がある。無感情な声に、首もとのアザ。(実はアザではなくて、製造番号だったことに暫くして気づいた)
「君はもしやアンドロイド?」
その問いかけに目を見開く。人間らしい表情なのに、人間臭さがなかった。
「分かるんですか?」
「うん、っていうか合ってるんだ。俺は……」
「ユウト、ですね?」
データベースにあります。真っ直ぐな目で言われた。とんでもないことに巻き込まれてしまったようだ。
「で、何で俺の家に居るの?」
「私、逃げているんです。私を作り出した人たち、私の能力が欲しいんです」
「能力?」
途方もないような話。俺は頭が痛くなった。
「それは人間が考えているようなものではありません。"人間らしさ"です。他のアンドロイドは、人間のようにつらつらと長く語るわけではない。でも私は違う。人間には劣りますが、表情を作ることも、感情を理解することも出来ます」
へぇ。確かにぎこちないけど、ロボットには見えないな。
「ロボットじゃありません」
ごめんごめん。
「かくまってくれますか?」
小首を傾げるなんていう小技もインプットされているのだろうか。俺は内心溜め息をついてから頷いた。
「良いよ、匿わなかったらどうにかなっちゃうんでしょ?」
「良いように使われるか、殺されます」
ユウト、これからよろしく。
やはりとんでもないことに首を突っ込んでしまったようだ。アパートの前の桜が、一枚だけひらりと落ちていった。
リンネ曰わく、この家は安全なんだそうだ。何故だか知らないが、彼女を追っている者たちは入れないという。
「じゃあ俺は行ってくるけど、外へ出ちゃ駄目だよ?」
「買い物も行かない?」
「俺がしてくるから」
何だか新婚さんっぽいね。くすっと笑って言うが、彼女には分からなかったようだ。まあいいやって、頭を撫でる。リンネはぽかんとした。しかし、徐々に笑みを作った。一日のあいだで、かなり感情を表に出すことが出来るようになったみたいだ。
「いってらっしゃい、ちゃんと待ってます」
いってきます。手を振って、俺は店に向かった。
ぼーっとしながら考える。どうして彼女は俺のもとに居るのか(少なくとも俺の家だけが原因とは思えない)。製作者、つまり追いかけてくる者はどんな人なのか。どうやってそれらから守ればいいのか。
悪の組織から守るようなキャラじゃないんだけど。先が思いやられる。
「そういやお前、彼女いないのか?」
「最近別れたんですよ」
それに今はそれどこじゃありませんし。突然の店長の雑談を軽く交わしつつ応える。アンドロイドが家に居て、その人は追いかけられてて……なんて言うなんて冗談じゃない、誰も信じまい。
「お前も早く結婚しろよー」
いやまだ24歳だから。思わずツッコミそうになるも、ガマンガマン。
「暫くはいいです」
そんなこと言うなよ。いつになくハイテンションな店長は俺の肩を叩いて去っていった。
俺は今度は実際に溜め息をついた。
「ただいま」
「おかえり」
パタパタとスリッパを鳴らしながらリンネが来る。本を読んだりテレビを見ていたらしい。それで表情を学ぶのだそうだ。吸収力は凄く、さらに人間らしさが増えている。
「変な匂いがついています。穢れてしまう」
彼女のその言葉にハテナを浮かべた。
「ああ、この部屋はなるべく桜の匂いがいいんです」
何で? ……特に意味は。 じゃあシャワー浴びてくるよ。
「はい」
上手く交わされた気がするが、でも俺はシャワーを浴びて見えない匂いを流した。
「ユウトは桜の匂いがします。何か思い出せそうです、でも……」
「無理に思い出さなくていいから!」
このままだとヒートアップするだろ。それでも機械なんだから。そう言えば、落ち着いたのかゆっくり頷いた。
「あの、思い出した方が幸せなのか、そうじゃない方が幸せなのか。教えて下さいユウト」
「俺は、徐々にでいいと思うよ。だってずっと逃げるんだろ?」
「良いんですか?」
おう。今にも泣き出しそうな(アンドロイドが泣くのか知らないけど)表情のリンネが小さく「ありがとう」と言った。
「よし、飯だ飯!お前もそういや食べるんだよな?何でもいいか?」
「はい」
食べ物をエネルギーに替える装置があるらしい。だから味も匂いも分かり、食べることも出来るようだ。
俺はごく簡単にご飯を作り、リンネの前に置いた。彼女の目は若干輝いた。
……やっぱりアンドロイドには見えないな。あと数日で本当に人間になってしまうのではないか。俺は既に、彼女を人間だとみなしていた。
「美味しい」
良かった。部屋は仄かに甘い匂いがした。
ガタン。扉が開いて、誰かが忍び寄る気配。息を潜める。寝室の扉が開く。何者だ?リンネは大丈夫なのか?
パタンと音を立てて扉が閉まる。素人の俺でも分かるような殺気。きっと玄人ではないはずだ、なら……!
俺のベッド脇で気配が止まり、何かを振りかざす。咄嗟にかいくぐり起きる。
「えっ?」
カーテンの隙間から漏れる光が、犯人の顔を照らした。
「リンネ?」
腕を掴んだ力が緩んだ隙に、彼女はするりと抜け出す。振り下ろされた刃物が腕を掠めた。血が滴る。それを見た彼女は瞬きをして動きを止め、ショートした。
「リンネ?しっかりしろ」
肩を少し揺らすと、ゆっくりと首をこちらに向けた。二、三度瞬きをする。
「ユウト?私、どうしました?」
濁りない目。俺は一瞬口ごもり、でも伝えた。
「何者かに操られて、俺を殺そうとした。コンピュータか何かを介して、乗っ取られていた記憶あるか?」
「……欠陥部分に、遠隔操作性ウイルスの介入痕が見られます。私は、」
そこで区切る。何かを躊躇う素振りをみせる。
「ユウトを傷つけてしまったのですね」
大丈夫だからね。つい先程自分で手当てした傷口のガーゼは既に滲んでいて、未だズキズキと痛む。しかしかといってリンネを心配させるわけにもいかず、何でもない顔をした。
「ユウト、私、逆探知かけてみます。穴くらいは見つかるかもしれない」
流石に無駄じゃないかとは言えなかった。そのウイルスは常駐ウイルスであり、外部からのコンタクトは(製作者なら)容易のはずだ(これでも俺は理工学専攻だ)。
「うん、わかった」
リンネは目を瞑る。ぼそぼそと何かを口にするが、俺にはわからない。そのまま2〜3分して再び目を開ける。
「やはり製作者です。移動式の何かに乗っていて、ここの場所も知られています。音声以外ある程度は筒抜けのようです」
何でそこまで分かるんだ?疑問に思う。
「罠か?」
「わ、な……分かりません。でも痕の中に奴らの会話が少し含まれていたんです」
会話?俺は続きを促した。
「はい、掻い摘んで言うと、ユウトを殺せと。それから私が彼らの手元に戻るように。」
「じゃあやっぱり分かってたか。ここにいちゃ危なくないか?」
いいえ、ここの方が安全です。でも…… とリンネは一旦口を閉ざす。真っ直ぐな目。
「ユウトは外に行ってしまう。そしたらまた狙われてしまいます」
目を伏せた彼女に微笑む。俺そんなヤワじゃないし。
「絶対に死なないでください。私のためには死なないでください。いざとなったら私を棄ててください。唯一の味方だった製作者がセルフデリートの機能をつけてくれましたから」
「約束は守るよ」
暗に示すのは、何があっても守るということ。それを読み取ったリンネは、悲しそうに顔を歪ませた。
俺はもう、このアンドロイドに惹かれていたのかもしれない。
それから3日後、俺たちは何者かに追われていた。
「これ以上逃げられないよ、リンネ」
「諦めたらユウトが殺されてしまう!」
「返り討ちにしてやるんだよ」
そんな手立ても力もないけどな、と心の中で付け加える。だが、そう簡単にやられてしまうつもりも毛頭ない。
でもユウト!リンネが必死な顔で俺の腕を引っ張る。大した時間は経ってないのに、随分と人間らしくなったな、と頬に指を走らせる。きっともう、一緒に居られる時間は少ない。
「ユウト!」
「随分と逃げてくれたな、製造番号Z00517、コードネーム"リンネ"。だがしかし、そのお陰で更に能力が開花したようだ。礼を言うよ、ユウトくん。……さてリンネ、君の目の前で彼が死んだら、完全な人間になるだろうね」
それは楽しみだねえ。気味の悪い声の主は、深くフードを被っていた。顔は見えないが、その高笑いには聞き覚えがある。
「……夢の奴か!」
俺を追ってきた人物。じわじわと追いながら、楽しそうに笑ってた男。夢の中で俺は為す術もなく追われていた。現実(いま)なら対抗出来るだろうか?
「ユウトは殺させません。私、戻りますから。機関に戻る、だから」
「悪いがアンドロイドごときの意見など聞くひまはない」
なら、人間の意見は聞いてくれんのかよ?間を割る。
「言ってみろ」
「リンネを解放しろ。彼女はもう人間と変わらない」
「馬鹿な。哀れな人間は機械に魅せられたか」
人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「人間にしたがってたのはお前らだろう」
まあ、それもそうだな。ではお前が助けてみろ。ヒントを与えてやる。
「?」
「リンネはお前の大切なモノだ。ソレの記憶を植え付けて眠らせてある。それを思い出させてみろ!」
先に死ぬなよ?と楽しんだ様子で奴は言った。俺の大切なモノの記憶……かと言って分かるわけもなく。暫く考えあぐねた後、奴は攻撃し始めた。
ユウト!何度もリンネが叫ぶ。お前、俺の名前ばっかりだな、なんて心の中で思う。やはり現実でもじわりじわりと追い詰めてくる。
大切なモノ、大切なモノ……。俺の身近な人で誰か死んでいたか?しかも女の子。そんなの記憶には一切ない。では?
「まだ分からないか。さらにヒントをやろう。好みは変わらないよ」
足元には銃弾が叩きこまれる。足をもつれさせながらも逃げる。逃げているだけでは進まないので、動きつつ考えた。
好み。リンネは何と言っていたっけ。「桜の匂いが良い」そう言ってなかったか?彼女ではないが、何か思い出せそうだ。桜が好き?大切なモノ?
「早くしないと、本気出すよ?そろそろお遊びはやめよう。十分な時間とヒントは与えた」
そうだな。きっ、と睨みつけるが効果無し。リンネは少し離れたところで怯えている。
「リンネ、お疲れ様」
銃口が彼女に向く。何故だ?体が勝手に動いた。
離れろ!叫ぶのと同時に、守るように立つ。その時、はっと気付いた。桜の匂いが彼女を掠めたときに香ったのだ。
桜が好きで、大切なモノ。桜が好きと言っていた大切な親友。何処かへ消えた彼と桜の樹。春のとある日に。だからリンネの正体は……
「ハルだ!」
二人の動きが止まる。俺は奴とリンネに言った。
「お前は俺の親友だ。リンネは俺たちが大切にしていた桜の木だ。だからリンネに記憶なんてない。全てお前の幻想なんだろう?」
「何で分かった?リンネのことも俺のことも分からないはずだったのに。でもな、ユウト。リンネには記憶はあるんだ、桜の精なんだよハルは」
フードを取った彼は、想像通りの顔で。シュウノ。中学3年間ずっとつるんでいた奴。俺たちは綺麗に咲く桜を眺めるのが好きだった。"ハル"と名付けられたその木は憩いの場所となり、よくそこで語り明かした。その桜の精がリンネだというのか。
「私は、どういうことです?」
「シュウノ、どうしてアンドロイドなんて造ったんだ。リンネ――いやハルをどうしたかったんだ?」
「ハルを人間にして、ずっと一緒に居たかった。お前とも居たくて、リンネを寄越した」
ハルが好きだったんだ。
「なら何でリンネに俺を襲わせた?」
それを言うと、彼女は体を大きく震わせた。
「それは俺じゃない!」
目の前に降り立ったシュウノは昔と変わらない目で言った。真っ直ぐな強い目だ。
「……俺はお前を傷付けるつもりはさらさらない。思い出しても、思い出さなくても、俺はお前とハルと一緒に生きようと思った。二人とも俺のものだ」
反逆分子に盗聴され、彼らが俺の攻撃を命令したようだった。
シュウノを裏切った奴らは近くにいる。そして彼やリンネは狙われてしまうだろう。
「思い出しました。いつも遊んでくれたのがユウトとシュウノだったのですね。だから私は桜の匂いを纏ったユウトを懐かしく思ったんだ……」
リンネが言い終わると、シュウノは手を差し出した。ちらりと彼女は俺を見てから手を取った。その二人の背中を押して、彼女に耳打ちする。
シュウノを連れて遠くへ。その言葉に躊躇いがちに頷いて走った。離れたところからクソッ、という声が聞こえる。俺はシュウノの残した銃を手に取り、そいつに向かって発砲した。
慣れないため銃弾は少しずれ、窓ガラスを叩き割った。散らばったガラスがそいつの身体を引き裂く。俺のところまでそれが降ってくる。俺は逃げなかった。
「知ってるか?三人じゃ一緒には生きていけないんだぜ」
おい残りの裏切り者、あいつら追うなよ。そう叫んでから、プツンとと意識が途切れた。
夢を見ていた。ざっくり言うと俺は死んだのだと思う。しかも無になった。起きてみて夢だと分かる。死んでないんだ、俺は。珍しくハッキリと夢を覚えていた……数日もするば忘れてしまうのだろうが。
ゆっくりと起き上がったとき、目の前に見えたのはピンクの花びら。昨日までは無かったはずなのに。
「シュウノ、ハル……」
無意識に零す。夢のはずだ。夢のはずだけれどリアルだった。桜の小枝と、腕の傷痕。不思議な事象に首を傾げる。
現実では、ハルは枯れていてもう会えないし、シュウノとも二度と逢えない。結局生き残ったのは俺だけか。あの夢は懐かしくて、もっと二人と一緒に居たくて。
仕方なくリビングに向かおうとしたら、全身に痛みが走った。
え?まるで夢の中のようにガラスが身体中に突き刺さったよう……夢のように?桜の花びらが散っていく。そういえば今は夏だったような。
これもまた夢なのか。
そう思った瞬間ブラックアウト。遠くで温かい手が俺を撫で、優しい声が聞こえた。あの日のように、また三人で桜の木の下に居られたら。その思いすらも夢の向こうに消えた。
どれもまた夢なんだ。
Fin.