胸を打つは、
岩場に腰掛けるセイレーンの歌声。
夜一人きりの小部屋、
目を瞑れば見える御伽噺は
わたしには少々長く。
紡ぐ声はやがては旋律に乗り、
この耳をするりと通り抜けていく。
柔らかい弦楽の音色は、
あの日旅した景色を見せた。
わたしは変わらない。
記憶の中の景色も変わらない。
石畳は今もあのお店に続くのか。
口に含んだ珈琲の苦さは未だ慣れず、
大人になりきれない心は苦笑しか出来なかった。
白波の立つ海原を見下ろし
片手には紅茶でも持ってみて、
白い家のバルコニーに。
遠く遠くから聞こえる澄んだ音は、
わたしを通り越して——
赤煉瓦も突き抜けて——
ぐるりと世界を一巡する。
人々の賑わいの声は耳を擽る。
忙しなく行き交う足に迷い込む猫のように、
わたしもこの人混みに紛れ
迷ってしまったようだ。
けれどまた聞こえる歌声は、
いつの日かに聞いたあの話の声ではなかったか。
道を示すように流れる音符に、
無意識的についていく。
そして、わたしは何処に着いたのだったろう。
光で輝く中の花弁の赤(ロッソ)、
匂いに付いた色は緑(ヴェルデ)、
岩場を取り囲む反射する青(アッズッロ)と、
その岩場で微笑む歌姫(セイレーン)。
わたしはただ静けさに溶けていた。
歌は途切れることを知らず、
何処までも昇華する。
爪先が反対を向けば背中を押す。
わたしはついと進んでいく。
歌姫よ——わたしの歌姫、
どうかいつまでもそこで歌っていて。
巻くことを知らぬ記憶に留まって、
昔伝え聞いた物語を綺麗のまま、
泡となって消えゆくまで。
歌姫よ——わたしの歌姫。
石畳で踊るわたしの為に、
ひとつ歌ってはくれないか。
——わたしの歌姫よ。